「教わった事」が「出来る様になる」には?
こんにちは。情熱の石井です。
先日こんな一幕がありました。
日曜日の昼下がり、丁度お休みだったので、仕事用の秋冬物のジャケットがそろそろ活躍する時期という事で、
数枚をクリーニングに出すことに。
私の自宅からは徒歩30秒の箇所にAとBという2つのクリーニング屋さんがあり、
いつもはAというお店に通っていたので、何の疑いもなく、Aへと向かいます。
入って早々、受付の方がいつものアルフィーの高見沢に毎度一瞬見間違うファンキーおばちゃんとは違い、
少し暗めで「研修中」と書いているバッジを付けた40代女性がひとりであることに気が付くも、
ああ、今日はいつものおばちゃんと、星空以上のディスタンスを感じるな。という一種の郷愁を感じながら、
クリーニングをお願いします、と言ってジャケットを渡します。
今年の春には気が付かなかったシミが随所にあったので、
「これを綺麗にできるやつでお願いします。」
と伝えたところ、
「お値段が変わりますが、よろしいですか?」
という、駆け出し2年目のサラリーマンには、身構えする回答が来たので、
「な、なるほど、ちなみにいくらになりますか?」
と、浴衣の胸元に忍ばせた3両で足りるかな。。と一抹の不安を覚えながら、尋ねてみると、
「わからないですね!!」
とこちらの杞憂を他所に、予想外の回答が飛び込んで来ました。
「、、、分からないとはどういうことはどういう了見で?」
と聞くと、その方が説明するに、
シミの大きさによって、値段が変わるが、それは一度工場に出してみて、正確な見積もりが出ないと判断できないとの事。
「いや、そんなはずはない。いつもの高見沢は、ちゃんと受付のポップをさして値段と根拠を説明してくれるのだけど、、、」
と疑いながらも、もう一度、「いくらになりますか?」と聞くも、全くスタンスを変えず、
「値段も仕上がり時期も分からない」の一点張りで、
この状況だと、正直客側のこちらも判断できないので、
20分の押し問答の末、別のクリーニング屋Bへ変更を余儀なくされました。
さて、ここで考察するに、高見沢が値段、時期共に提示できるという事は
必ず誰かに教えて貰う「機会」が存在し、それをちゃんとアウトプット出来るかどうか、が
今回の2人の差であると感じました。
人が初めての仕事をする時には必ず「教わる」事が発生し、
それが「出来る」ようになるには、さらに現場での教育が必要不可欠です。
この場合、目の前の店員さんが「仕上がり時期と値段を明確に提示できない」要因としては、
① 教わっていない
② 教わったが忘れている
③ 忘れていないが、アウトプットする意識が無い
の3択ですが、①は高見沢の前例があるので、あり得なく、可能性としては②と③です。
これは本人の意識もそうですが、教える側がこの現状を認識し、的確なフォローをする事によって
確実に②と③の問題は解決する事が可能です。(この場合、例えば現場にひとりで放置ではなく、高見沢と必ず現場inさせるなど)
学生時代の勉学だと、①が人によってはダイレクトに成績に影響が出ますが、
新卒を雇うほとんどの企業が「新入社員研修」を導入する事から推測するに「教わっていない」事はほとんどなく、
「出来ない」のには何か別の理由があるのではないでしょうか。
「分かる」と「出来る」は違うと良く言いますが、
この「(仕事が)出来る様になる」までのプロセスは学生時代の勉学のそれと全く異なるロジックで展開される事もひとつ、「学生と社会人の違い」であり、それらを「教える側」が理解し、いかに実行するかが全てではないのでしょうか。
ちなみにB店には、もう恋なんてしないなんて絶対言わなそうな、槙原似のおばちゃんが佇んでおり、A店と同じ様に状況を説明すると、すぐさま仕上がり時期、値段を根拠と共に提示してくれました。
今後の私としてはB店に赴き、今度は遠く離れないよう、足しげく通っていこうかと思います。
心なしか、最近どこからかギターの音が夜な夜な聞こえるので、今日はこの辺で。。